地震の後の自責とワールドカップ

日本がサッカーワールドカップの1次リーグを突破して、決勝トーナメントに進出しました。ベルギー戦での西野監督の采配が、云々されていますが、目的を重視する私にとっては、目先のメンツや感情にとらわれない、素晴らしい判断だと感じました。いずれにしても昨夜は、遅くまで観戦した方も多かったことと思います。

一方で、大阪で地震があったのは、つい2週間前のことです。被害に遭われた方の生活面や精神面の辛さは、想像に難くありません。幸い被害がなくても、関西では今、南海トラフの恐怖におびえている方が多いと聞きます。

1週間前、私はメンタルレスキュー協会の講座で、仙台に行きました。仙台の方々にとっては、やはり大阪の地震は我が事のよう。ブロック塀の危険など、「東北地方ではみんな知っていることのことなのに…」と残念がっていらっしゃいました。

地震という惨事を非常に身近に感じている方もいれば、直接的危険性をあまり感じていない方もいる。ただ、そんな方でも、ワールドカップに浮かれているとき、ふと「地震でつらい思いをされている方もいるのに…、自分はこんなことで浮かれている」と小さな自責の念を感じていらっしゃる方もいるのではないでしょうか。

大きな災害があると、社会に「漠然とした罪悪感」が広がり、いわゆる自粛ムードになることがあります。罪悪感は、惨事特有の心理状態の一つです(詳しくは、「クライシス・カウンセリング」)が、それがうっすらと、社会全体を覆うのです。

でも、私は思うのです。そもそも、人が罪悪感を感じるのは、直接的に援助行動をするため。被災した方に、物理的に近い方は、そうなる意味があります。現代社会では、情報が行きかうので、日本中が被災者に「近い」反応をしてしまうのです。

ところが、私の好きな「原始人」で考えると、例えば100人の村で、3人が災害にあったとしましょう。その周辺の10人程度が、罪悪感を感じ、3人の支援をすればいい。では、あとの90人は…。

あとの90人は、他部族の襲撃や、次のつらい冬のための準備をするために、しっかりとした生活を維持しなければならないのです。全員が落ち込んでしまっては、集団は勢いをなくし、次の危険にも対応できない。

だから、今回の被災にあまり関係ない方は、ワールドカップに熱狂してもいい。毎日の生活を楽しんでもいい。そうすることが、集団としての強さになると思うのです。

西野監督の「不本意な采配」は、感情ではなく、目的重視。

確かに、感情的には、災害を忘れている自分に、負い目を感じる部分もあるでしょう。ただ、目的から考えると、被災していない方は、自分が元気に日常を送ることが、日本という集団を支えていくのだと、考えることもできるのです。