はだいろ、パワハラ、そして自死

最近「肌色」という言葉に差別が含まれるということから、商品の説明をベージュに変更したり、クレヨンの表記から肌色が使われないようになっているということがニュースで報道されました。

その報道を見て、素直に二つの感想があると思います。「そりゃそーだ、気をつけなきゃ」という感想と、「そこまでこだわらなくてもいいんじゃないの、ちょっと過敏じゃないの」という感想です。

後者は非常に素直な感想なのですが、この際、なぜそう思うのか少し考えてみました。様々な要素はあると思いますが、一つには「自分は相手を傷つけるような意思がないから、そこまでこだわる必要がないのではないか。受け取る方が過敏すぎるのでは…」という理屈だと思います。これは一見正しいように思います。

ところが例えばパワハラをしている人は必ずそう言うのです。「相手のためを思ってやっている」「みんなを代表してやってるんだ」「これぐらい当たり前だ」、つまり心根が正しければ、相手の受け取り方はあまり気にしないという発想です。

しかし、実際はパワハラを受けた人はパワハラした人の心根にかかわらず、大変傷ついています。

もっと言うと、純粋な相手を思う恋愛の気持ちでも、相手に異常につきまとえば、それはストーカーになってしまうのです。相手にとっては、殺人者にねらわれているのと変わりません。

「心根」重視の考え方は、私達が小学校の頃から教わってきた教育の影響を少なからず受けています。結果よりも過程を重視する教育です。もちろんそれが悪いなどと言うつもりはありませんが、心根さえ良ければ全て許されるという発想は改めなければなりません。

一方で全体的なバランスも考える必要があります。

身内が自殺した方は「自殺」という言葉に大変傷つきます。殺という字が入っているからです。カウンセリングの中で「父は自分を殺したわけではない、人殺しではない」と訴えた遺族もいます。

実は私は、自殺という言葉が残された方を傷つけることは十分わかっていても、あえてこれまでは「自死」という言葉への言い換えをしないで来ました。というのも、自死という言葉がまだあまり耳慣れないため、逆に周囲の人から変な関心や注目を呼び起こす可能性を感じていたからです。

しかし、自死遺族、という言葉がかなり定着してきました。私の活動の中でも、そろそろ自死という言葉へシフトしていくタイミングかもしれません。