感情と論理・倫理

 オリンピックを見ていてつくづく思うのは、やはり人は感情の生き物だということ。

日本人選手やお気に入りの選手の活躍を見ると、自分も興奮し、夜も眠れなくなる。別に自分がやっているわけでもないのに、手に汗握り、体を揺さぶりながら観戦している。この盛り上がり感や一体感が、スポーツの魅力だ。見ているだけでも充実感を与えてくれる。

 大学のころやっていたフェンシングが金メダルを取った時、当時の仲間から突然のメールが来た。久々に当時の試合を鮮明に思い出し、懐かしかった。

ところで、どうしてこうもオリンピックは、私たちに快感を与えてくれるのだろう。

 これはやはり原始人的な欲求が満たされるからだと思う。

 日本の金メダルが増えても、自分の給料が増えるわけではない。ただ、原始人的に考えると、自分に近い人(血筋、人種、出身、組織、知人…)が勝利するということは、自分自身が生きていける確率の増加につながるのだ。だからうれしいし、興奮する。

 一方で、活躍した選手に対し、他国からのSNSなどでのバッシングが報道されている。これも原始人的には、他部族への攻撃(反撃)と理解できる。良し悪しとは別に、人は倫理より感情の影響を受けやすいということの表れだろう。

 また、この攻撃性が強まっているのは、オリンピックによるものだけでなく、コロナによる不安や自由の制限による継続的なストレスによるものもある。

 今「論破」がブームのようだが、これは一見論理的であるように見えるが、非常に感情的なブームだと思う。論破したところで、その後どうなるのか。商談が進むのか、人間関係がよくなるのか…。本当に先が読める人は論破には関心がない。論破は単に言葉やロジックというグローブで相手をノックアウトさせる行為に過ぎない。オリンピックのように興奮し快感があるかもしれないが、現実的にはあまり得をすることはないだろう。

 私たちは、自分の行為を握っている感情とTPOで上手に付き合っていかなければならない。倫理や論理だけでは、良い人生を送りにくい。もっと感情について考えてみてはいかがだろうか。