寛容でなくなりつつある社会

日馬富士の暴力事件、英国・米国議員のセクハラ問題、芸能人の不倫問題…。

様々なニュースが世の中を騒がせていますが、なんとなく世の中が不寛容になっているような気がするのは私だけでしょうか。

物事の善悪を問題にしたいのではありません。それぞれの問題の本質は悪いに決まっている。しかし、だからと言ってそこまで世の中から攻撃されることはないような気もするのです。

今は、ネットで自由に発言できる。素晴らしいことです。

しかし、ネットではそれぞれの発信者が、自分の発言の攻撃力をそれほど意識しません。ちょっと自分の気に障ったことがあり、勢いで脅迫めいた発言を送ったとしましょう。送られた方は相手やその意図が特定できないだけに、とても恐ろしい思いをするのです。

マスコミに取り上げられる「悪い行為」は、たくさんの人を経由して正義の意識の中で増幅され、長い間特定の個人を襲います。集団の力は恐ろしい。

この問題を考えるとき、アメリカの銃社会の矛盾を思い出します。

敵が銃で攻撃する可能性があるから、自分も銃で自分を守るという理論。

でも、銃がある社会は、結局ずっと他人を警戒しなければならない、大変消耗しやすい社会だと思うのです。その点日本は、基本的に一般人は銃を持っていない。だから、それほど警戒しなくても毎日を過ごせます。

インターネットの怒りは、銃のようなものかもしれません。みんなが銃を持ち始めたとき、結局有名人だけでなく、だれもが周囲を警戒し、それだけで疲れてしまう社会になってしまうような気がするのです。

かといって今やネットをなくすの不可能です。でも、人が怒りのケアをすることはできます。銃がなくて平和な生活を送れる日本人は、怒りをケアすることを覚えれば、ネット社会でも安心して生活できるようになる…。

「世界平和にはやっぱり感ケアしかない」と妄想している今日この頃です。